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ネトフリで見た『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』がなかなかに意欲的な作品だった [アニメ周辺・時事]

 定期のお立ち寄りありがとうございます。初めての方もお見知りおきを。

 今回もひと時お付き合いのほど。を。

 えー。


 先日、Netflixに『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』があったので、見てみたんですよ。

 きまオレは原作読んでいるし、TVシリーズは全話見ているはずだし、でもこの映画は見ていないし、あと望月監督に興味あるし。

 望月さんと言えばなんと言っても『海がきこえる』。


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 あと、めぞんの完結編が思い浮かぶ。ダーティFLASHもそうか。Gレコにも参加した!

 でも見てない作品も多いので、ちょっと見ようと。

 『あの日にかえりたい』、評判はネットで見たことあったんですよ。
 原作とかなり違うとか、原作者さんが怒ったとか、原作ファンからの反応もあまり良くなかったとか。

 で、実際に見て。変わった映画だなーと。かなり意欲的というか。




 まず、話のメインがね、まどかと恭介が心置きなく付き合うために。
 「ひかるちゃんを諦めさせる」なんですよ。

 少年向けのラブコメって、複数の可愛い女の子が都合良く主人公の男の子を好きになって、そしてヒロイン以外のサブヒロインはなんだかんだあっても・結局は物分かりよく別れていくじゃないですか。

 でもこの作品のひかるは、全然恭介と別れてくれないんですよ。




 実際に付き合った? 女の子と別れるって、こうまで面倒くさいんだ、ってところを見せるの。

 それを、少年向けラブコメの『きまぐれオレンジ☆ロード』で。

 高橋・あだちの両巨頭がいるサンデーに比べて、ちょっとラブコメが苦手な感があった80年代ジャンプにおいて現れた、王道ラブコメの『きまぐれオレンジ☆ロード』を「使って」、別れるって面倒くさいよ、思い切り冷酷になる必要あるよ、かわいい女の子を傷つけるよ、ってのを見せているんですよね。

 『きまぐれオレンジ☆ロード』って、まつもとさんご本人曰く、桂正和さんは変身美少女マンガ、江口さんも美少女描くけれどギャグ、当時ジャンプでラブコメやっているのはちば拓さん(キックオフ!)しかいなかった、って状態の時に登場した作品ですからね。

 その『きまぐれオレンジ☆ロード』を使って、ある種のラブコメ否定。
 ここらへんの作品の立ち位置が、押井作品『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』に似ているな、と思って。





 意図的に「閉じた世界」を作り出している高橋作品の・『うる星やつら』なのに、そこを浮き彫りにさせた『ビューティフル・ドリーマー』と狙っているところは似ているな、と。

 そのせいなのか、どちらも原作者には好意的に受け取られていないようだし。

 望月監督のブログによると、まつもとさんの意向でフィルムコミックも発売中止、DVD-BOXにも入らなかったらしいから、この作品。

 『きまぐれオレンジ☆ロード』というより、ジャンル自体への「異議申し立て」みたいな作品なので、面白いと思うんだけれどね。

 だって、まどかがひかるに「私たち、もう3人ではいられないんだね」と告げた直後のシーンで、まどかと恭介が『タッチ 背番号のないエース』を見るんだよ。


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 その中の、南ちゃんが「南はかっちゃんもたっちゃんも好き。小さい時から、いつだって3人一緒だったじゃない。これからだってずっと一緒。それでいいじゃない」って言っているシーンを二次使用しているんだよ。

 もう、ひどいな。悪意(笑)。
 ジャンルそのものへの異議だよ。


 それともう1つ、これもたぶんかなり意図的に、性について盛り込んでいるんだよね。

 恭介が悪友とオナニーの話をするシーンとか、その最たるもので。
 話の本筋には関係ないけれど、けっこうな尺を使っているの。

 それって、制作側が「これを訴えたい」「どうしても入れたい」ってことだよね。

 少年誌に載っているラブコメって、それこそ『きまぐれオレンジ☆ロード』がそうだったように、女の子の下着見てどきっとか、そんな感じでしょ。

 でも、現実では・盲目的に好いてくれてキスまでした女の子が、物分かり良く別れてくれないのと同じように、青少年男子のエロはどきっばかりじゃないだろという異議申し立てでしょ。

 まあここらへんはさ、『じゃじゃ馬グルーミン UP!』が……じゃじゃ馬をラブコメ作品として扱っていいのかはひとまず横に置いといて、

 ひびきちゃんが妊娠したことで、1つの解答が出たって感じもするけれど。


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 ここまできて。
 持ち上げてばかりいるのもアレなので。
 もちろん今見ると、ちょっと辛いところもあった。

 特にセリフとか(「ラッピー」は当時でもキツイよなあ……)、仕草とか。

 あとこれは不思議なところなんだけれど、鳥の群が画面に入ってくるシーンあるんだよね。
 結構動いて、キャラクターの背後を飛び去って行くの。作画の手間も余計にかかるだろうに、あそこ、なんか意図があったのかなあ。


 そうだ、もう1つ。良かったシーン。
 予備校でまどかと恭介が喋るシーンがあるんだけれど、音声。というか、声の聞こえ方。

 教室で2人で喋ったら、やっぱりこうだよな、っていう。

 と言うのも、アニメの高木さんで、かなり違和感あったんだよね。


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 漫画だとたいして気にならなかったのに、大勢いる教室で・授業中にコソコソ喋っているはずなのに、全然そんな感じがしない。

 そこだけ異空間で切り取られているのかな? と揶揄りたくなってしまうような。

 で、この作品見たら。
 そうそう、こうなるはずだよな、と。まあ仕方ないんだろうけれどねー、高木さん。ああしないと難しいんだろうな。フィクションの綻びが見えてしまう、アキレスの腱みたいなポイントだったのかな。


 で、『 あの日にかえりたい』に話を戻して、最後のシーンですよ。
 ひかるの「バーン!」ですよ。

 あれ、視聴者に向けてでしょ?

 劇場版『エヴァ』の、観客映し出すのと一緒。
 
 あ、最後にご丁寧にここまでするんだ、と(笑)。

 都合良く別れないひかるが、『きまぐれ』見ている視聴者に指の銃口を構えるわけですよ。しかも正直、このポーズ自体がラブコメあるあるですよ。 


 いやーほんとにね。
 意欲溢れた、不思議な、変な作品ですよ。

 途中で書いたように、ノスタルジー無しだとちょっと厳しいかもしれない箇所もあるので。

 かつてきまぐれORを読んだり見たりしていた人で、ネトフリに加入していて、『あの日にかえりたい』未見の方は、見ても損しないんじゃないかと思います。






 

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富野作品で、これまでと違うタイプの「主人公の父親」が描かれる日はくるか。 [富野関係]

 毎度のお運びありがとうございます。
 もしよろしければ、今回もひと時お付き合いのほどを。


富野監督の、父への思い


 ファンはご存知だと思いますが、富野監督は自分の父親に対してかなり複雑な感情を抱いています。
 まずは、富野監督自身が語るお父様の経歴と、思いの一例、次の3つの文章をお読みください。


 父の仕事も僕の知る限り、学校の教員でしかなかった。ただし僕が生まれた頃は、いわゆる化学方面の技術者として軍需工場に勤めてまして、その前は30歳近くまで学生をやってた人なんです。(中略)そんな時に戦争が始まって、兵隊に引っ張られるのが嫌なばかりに、化学を専攻していたこともあったので軍需工場に勤めちゃった。(『富野由悠季全仕事』40P)



 (義妹の葬式に)出席していたら、母か父のちょっとしたつまらない言葉か行動が原因で、ぼくは母殺しをしていただろう。父殺しをしていただろう。
(中略)
 しかし、ぼくの心のなかでは、ときに、父の不甲斐なさを埋め合わせるために働かされているとすねるときもあった。が、それでも、悔しくともこのような両親でいてくれたから生まれることができたのは事実である。(『∀の癒し』129-131P)



 父を情けない、恥ずかしい人と思っていました。ずっと。
 (中略)
 現実から常に半歩ひいた、この志のない人生への態度は何なんだろうと子どもながらに思いました。(朝日新聞2010年10月24日、連載「おやじのせなか」)。


 以上です。
 富野監督のお父様は、かなりの名家の生まれだったようです。

 富野監督の著書やインタビューを読むと、その生まれに甘えている…というか縛られているところがあると、監督は考えているような気がします。



富野作品の主人公の父親を振り返る


 さて、上記の引用を踏まえた上で、富野作品(TV・映画)の主人公の父親を列挙してみます。

1972年 『海のトリトン』、開始時点ですでに死亡。

1974年 富野監督、二女誕生(スニーカー文庫版『だから僕は…』282P。71年に結婚しているので、長女はおそらくこの間に生まれている)

1977年 『ザンボット3』、神源五郎。網元。

1978年 『ダイターン3』、破嵐創造。サイボーグ工学の権威。敵のメガノイドを生み出した人物。

1979年 『ガンダム』、テム・レイ。技術士官。

1980年 『イデオン』、ユウキ・ロウル。遺跡調査団長。1話で死亡。

1982年 『ザブングル』、通称「鉄の爪」。ロックマン。開始時点ですでに死亡。

1983年 『ダンバイン』、シュンカ・ザマ。経済評論家。

1984年 『エルガイム』、カモン・ワーラーV。開始時点ですでに死亡。

1985年 『Z』、フランクリン・ビダン。技術大尉。5話で死亡。

1986年 『ZZ』。開始時点で不明。

1991年 『F91』。レズリー・アノー。金属工学の権威、物語開始時は建設工事の労働者。死亡。

1993年 『V』。ハンゲルグ・エヴィン。リガ・ミリティアの創設者ジン・ジャハナムの一人。

1998年 『ブレンパワード』、伊佐未研作。オルファン研究の第一人者。

1999年 『∀』、不明。

2002年 『キングゲイナー』、名称不明。開始時点ですでに死亡。

2014年 『Gレコ』、?・レイハントン。開始時点ですでに死亡。


 どうでしょう。初期のトリトンとザンボットは除き、ダイターン以降は・大抵は技術者であることが多く、そして最初から死んでいるか、すぐに死んでしまうか、のどちらかが多いです。
 または伊佐未研作のように、登場はしても物語(あるいは主人公)にほとんど「効いていない」パターンもあります。
 

 ここで一視聴者なら、僕も含めて富野監督自身の父親とキャラクターの父親像をダブらせるところなのですが。技術職であるところ、とかね。

 ところがびっくりするのは、富野監督自身はこの類似性を否定していることです。
 上でも引用した記事からですが、以下の文章をお読みください。



 ガンダムのヒーロー、アムロの父も軍の技術者。「父親の投影か」とよく聞かれる。違う。現実の戦争や人間は……もっとずっと救いがたいものです。(朝日新聞2010年10月24日、連載「おやじのせなか」)。
 


 ところがこんなことも言っております。



 そして、アムロを殴ることができなかった父親のテム・レイは僕の父がモデルである。
 テムは、ガンダムの開発者で、戦火を避ける避難民の救助よりも、ガンダムの運搬を優先させるよう命じる男だ。
 僕の父は冷たい人間ではなかったが、社会に向き合わない技術者であったことには変わりがない。子供には優しい、というよりも甘いところがあり、僕自身もそこに甘えてぬくぬくと育ってしまったという自覚がある。(『「ガンダム」の家族論』49P)



 どっちだ、と(笑)。
 もちろん「文脈」というものが存在しますので、一部分だけ切り取ってもアレですが。 

 しかし一視聴者・ファンの立場からすると、やはり何らかの関係があると思ってしまいます。

 もう一つ驚く点は。
 富野監督が実生活では父親であっても、主人公の父親は「父親の立場になって分かることもある・愛着を持って描かれた父親像」ではなく、あくまで子どもからの視点の・理解できない父親として描かれているか、あるいは最初から(既に死んでいるか・1話で殺すかによって)描写を放棄している点です。

 もちろん、メイン視聴者である子どもは主人公に感情移入するだろうから、あくまで「子ども視点から見えるダメな父親」として描いた、ということもあるでしょう。

 それに、「父親の立場から描いた」と思えるキャラクターもいます。

 それは例えばララァに母親を求めておきながら・クエスから父親を求められると兵器として扱ってしまうシャアだったり、仮面をしていないと娘と接することができない鉄仮面などは、「父親の立場から描かれた父親」だと思います。

 しかし、主人公の父親の描き方は徹底している。

 自分が父親になったことによって、その経験や心情を作品に大いに盛り込むアニメ監督もいる一方で、富野監督のこの姿勢はある意味一貫しています。



家族より研究(仕事)を優先する父親像


 ごく初期のオリジナル作品以外では、主人公の父親は技術職が多く、そうでない場合は最初から死んでいて登場しません(ザブングルやキンゲ)。
 1話ですぐ死んだイデオンなども含めて、そもそも「父親」を描くのを、最初から放棄しているようです。
 ちなみにイデオンではコスモの代わりと言ってはなんですが、ベスの両親が出てきて親子関係がメインに描写される回(31話「故郷は燃えて」)がありますが、あの回は富野メモはなく脚本家・渡辺由自さんのオリジナルだったはずです。

 富野監督自身は、『「ガンダム」の家族論』の中で、主人公の父親については『ザンボット3』を例に挙げて触れている箇所があります。


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 でもぼくが思うに、源五郎は網元という仕事柄、リーダーシップは強いのでしょうが、どうでしょう。
 見ていると、神ファミリーをまとめているのは神北兵左衛門のイメージありません?

 また勝平をたしなめたり助けたりする意味では、兄の一太郎が父親の役割を担っている面もあります。
 正直、「父親」の役割の半分以上は一太郎が担っていて、あのような兄を設定する自体が、ぼくには思うところあるんですよね。
 源五郎は理想的な父親像の1つとして描かれながら(だからこそ富野監督も家族をテーマにした著書で取り上げているのだろう)、その父親像を1キャラクターに統合しえない、というね。


 『ダイターン3』はまあ、スルーですよね。

 万丈の父・創造は母と兄を殺した男で、メガボーグを生み出した男で、ひょっとしたらドン・ザウサー本人かもしれない。

 万丈の異様とも言えるメガボーグへの怒りは、そのまま父親への怒りです。

 こんなの行きつく結論は1つ、陳腐なものにしかならないのでスルーです。


 で、その次がファーストガンダムのテム・レイです。
 ファーストでは父親を描こうとしていますが、結局、テム・レイは父親ではなく技術者です。

 その後のシリーズは、『V』を除いては、最初から殺して「父親」はスルーするか、テム・レイのパターンを繰り返すかのどちらかです。

 最初からいない父親だとロックマンや王様にもできるけれど、少しでも登場させるとなれば技術者系の父親しか設定しない・ひょっとしたらそれしかできないですよね。
 それがロボットものの作法、って言われたら反論はしないけれど(お父さんが作って俺が操縦するロボット!)。だからTVシリーズじゃないから除外しましたが、『リーンの翼』は貴重。

 『ダンバイン』ではあまり興味がなかったのか(それも1つの志向なんだけれど)、割合まともな父親でした。
 ま、子どもの頃から息子を知っている女を秘書兼愛人にしている男が、父親としてまともかって話はありますが。
 地上に戻ってきたショウを本人と確認するのは両親ではなく、その父親の愛人・ヨーコさんだしね。

 で、『Z』はアムロとテムの関係をさらに悪化させたものでした。

 これは、ファンとしては非常に書きづらいのですが、富野作品における「主人公と父親」の関係って、濃淡の違いはあれど1種類しかないと思います。
 自身の研究にしか興味がない父親と、それを拒絶する子、です。

 繰り返しになりますが、富野作品で「父親を描いていない」ということではありません。

 先述したシャアや鉄仮面もそうだし、ドバなどには父親の悲哀を感じてしまいます。

 しかし、こと「主人公の父親」に関して言えば。
 1パターンしか描けないのではないか、そしてその理由は、自身の父親への思いと無関係ではないのではないか、と愚考します。
 もちろん、『「ガンダム」の家族論』を読むに、仕事に打ち込んでいた自身を反映させている面もあるとは思いますが。



母親は、作品を重ねて子である主人公と歩み寄っている


 もう1つ、比較したいのが「主人公の母親」です。

 「主人公の母親」も父親と同じように初期作品では最初からいないか、あるいは断絶が描かれていましたが、やがて和解が見られます。

 父親と同じパターンの技術者でありながら、「あやとり」によって親子の縁の描写があった『F91』などは、『ダンバイン』ショウの母親チヨ・ザマとはえらい違いです。

 主人公と母親の関係は、初期作品と後期の作品を比べると・変わらない父親の関係とは違い、良い方向へ進歩しているように見えます。

 現在における最新作『Gレコ』で。
 義母のウィルミットはベルリのことを思う母親として描かれているのに、父親が全く登場しないのは、「やはり」と思うと同時に、もう富野監督は諦めたのかな、とも放映当時思っていました。

 『Gレコ』でもアイーダ様とスルガンが腰をおろして語る印象的なシーンがあるのに、なぜ主人公の父親は不在なのか……これはひょっとしたら、富野監督本人にも分からないことかもしれません。



チャレンジした『V』


 しかしそんな中、富野監督が唯一と言っていいほど描こうとした新しい「主人公の父親」像が、よりによって『V』の時でした。

 『∀の癒し』によると、この頃の富野監督はかなり精神的に疲弊していたようです。
 けれども何故かそんな時期に、今まで描くのを避けていた新しいパターンの「主人公の父親」を描こうとしたのです。

 何故なんだ……

 見ている方はご存知でしょうが、最後の最後、特攻の段になってウッソの父・ハンゲルグは姿を消します。
 おそらく逃げたのでしょうが、ここの解釈は今もって不明です。

 ファースト以降、初めて新しいタイプの「主人公の父親」を描こうとした作品において、そのキャラクターが最後に逃げて・姿をくらましてしまうのは、なんとも象徴的です。

 ここで、ササキバラ・ゴウさんのハンゲルグ評を引用しておきましょう。

 ウッソの父ハンゲルグは、最後までウッソに父親らしい接し方をせず、優しい声は一切かけない。(中略)たぶん、彼は戦士ではなく、政治家だったということだろう。(『それがVガンダムだ―機動戦士Vガンダム徹底ガイドブック』132P)


それがVガンダムだ―機動戦士Vガンダム徹底ガイドブック

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  • 作者: ササキバラ ゴウ
  • 出版社/メーカー: 銀河出版
  • 発売日: 2004/01/01
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 ぼくは願わくば、次作において、新しい「主人公の父親」を見てみたいと思っています。

 さっきもちょっと書きましたが、おそらく「子から見たわがままな・父親をやってくれない父親」って、「富野監督の思う父親としての自分の評価」も入っているような気がするんですよね。邪推ですが。

 ただぼくとしては「2人の女の子を育てて、孫まで得た映像作家が描く、もうちょっと理想的な主人公の父親」も見てみたい。

 その時、富野作品って(またもや)新しい扉を開くのではないかと期待しています。



なんとか当ブログも300万PVを超えました


 最後に、本論とはまったく関係ありませんが、このブログも数日前に累計PVが 300万を超えました。

 長年やっているブログなので、人気ブログに比べたら「遅っ」ってことでしょうが……
 ずっと続けていれば、なんなら開設さえしていれば数字は増え続けるし、遅い歩みですが、それでも嬉しいです。

 ここ1年くらいはソネブロのカウンターがぶっ壊れたのか、1日に1000~5000PV読んでいただいているようです。冗談ではなく、本当にカウンターが壊れていると思っているのですが。

 読んでいただいている方や、さらにはSNSで拡散していただく皆さんのおかげで、書くモチベーションが保たれています。

 もしよろしければ、これからも気が向いた時にお寄りください。



※なんか見つけた。見たことなかった……




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