富野の書いた作詞ってどう? まとめ [富野関係]
さて今回は珍しく、すぐ本題に。
ぼくは「アニメ監督・富野由悠季」はスゴイスゴイ! であり、一方「小説家・富野由悠季」はダメダメ! であり、では「作詞家・富野由悠季(井荻麟)」は? と言えばヨクワカラナイ、だった。
しかし最近、『傷ついたジェラシー』を聞き返す機会があり、「なんか、いい歌(歌詞)だな」と改めて思ったんですよね。
ブログで記事書こうかな、と考えたんですけど。
けれども、ですよ。
音楽の素養もなく、楽器がひけないどころかドレミも分かんねーボンクラことわたくしめが、歌詞の記事なんて書いていいんだろうか、恥ずかしいぞ・それは、と思ったんです。
あ。ああああああああ。
おれ、絵も描けなければ(どれくらい描けないかと言うと、しょうこお姉さんや小林ゆう画伯が上手と思えるレベル)、自主製作の短編1本も撮ったことねーのに、えらっっっそうにアニメや映画のこと書いているわ。
すでに恥かいているんだから、今さら恥の1枚や2枚上書きしたところで、どうってことないね。
そんな訳でこれから数回に分けて、「富野の書いた作詞ってどうなの?」ってことを素人ながら、富野愛だけで書いていこうかと思います。
ちなみに富野が書いた作詞って案外多いので・詳しく知りたい方はkaito2198さんが書いたリストを参照して下さい。
今回はテレビシリーズアニメのOP・EDを対象にします。
富野か書いたのか、否か? 2説あるザンボットとダイターンのOP・EDは外します。
また、共作の『Z・刻をこえて』も除きます。
で今回対象にするのは、『ガンダム』からはじめて、ぼくが興味を持った『傷ついたジェラシー』までにします。
ちなみにこの範囲外ですが、共作である『STAND UP TO THE VICTORY~トゥ・ザ・ヴィクトリー』。この歌に関しては。
作曲の川添智久さんが、(富野からあがってきた詞が)いけいけガンダム~みたいな歌詞だったので新しく作らせてもらった、旨のインタビュー記事を読んだことがあります。確か『V』のLDのライナーノートだったかな。
だから多分、富野の歌詞をみかみ麗緒さんが手直しした、って手順なんだと思います。
さて、この記事を書く前に知っておきたいのは、富野が作詞する際、曲が先にあるのか、それとも詞先なのかってことです。
キンゲは、田中公平さんがNHKのアニソン番組で、「苦労したのはキングゲイナー。ほら、歌詞変えられないから」みたいに言っていたので、詞先で間違いないと思います。
『イデオン』もCD「伝説巨神イデオン」(オリジナルサウンドトラック)のライナーノートに、すぎやまこういちさんが「コスモスに君と」について「私自身、この詩を受け取った時、大変のって旋律を作ることが出来ました。」と書いております(蛇足だけど、このライナーノートを見返していたら「デス・ファイト」のピアノ演奏しているの、羽田健太郎さんだった)。
菅野よう子さんは、インタビュー記事はけっこうあるのに、該当箇所は見つけられませんでした。
ガンダムは、『作曲家・渡辺岳夫の肖像 ハイジ、ガンダムの音楽を作った男』など読みましたが、やはり詞が先か曲が先か、書いてある資料は見つけられませんでした。
ダンバイン、ザブングル、エルガイムは手持ちの資料が少ないので不明。
これらのOP・EDが詞先か曲先か、明記されている資料を知っている方がいらっしゃたら、是非教えていただきたいです。
すぎやまさんや田中さんのようなビッグネームにも詞先だったので、菅野さん作曲の主題歌はほぼ間違いなく、富野の詞先だと思うけどなあ。
ただ『キングゲイナーエクソダスガイド』の富野x広井x田中対談では、田中公平さんが
富野さんの歌詞は、曲先の場合なんかでも「ここにこんな言葉がはまってくるのか」というおもしろさがあるんです。
と言っているので、曲先の場合もあるってことだよね。これは多分、劇中歌だと思うけれども。
後は、筒美京平さんや芹澤廣明さんなど、アニメ畑以外の作曲家の時は、どうしていたかってこと。
ぼく個人としては、ニール・セダカ作曲の『Z』と、『疾風ザブングル』以外は、詞先だと思い込んでいます。根拠なし。
あ、『疾風ザブングル』が曲先だと思っているのは、後日書くけどちょっと理由があります。間違っているかも、だけど。
では次回から、富野の作詞を見ていきましょう。
さて、富野の書いた作詞ってどう? の1回目。
序章の前回で「今回はテレビシリーズアニメの主題歌だけを対象に」と書いておきながらナンですが、1作だけ例外、富野作詞と言えばコレ! な『シャアが来る』から見てみましょう。
できれば、こちらの歌詞と合わせてお読みいただくと、よろしいかと。
メロディーを全く思い起こさずに歌詞だけ見ると、まずオウッと思うのが、サビはどこだ? ってこと。
歌詞って普通、
Aパート
Bパート
サビ
とか、
Aパート
Bパート
サビ
Cパート
サビ
みたいな構成になっていると思うんだけど、この歌はいったい…
そしてこの歌詞がユニークなのは、「コレ、誰の視点なの?」ってことだろうね。
「シャアが来る」ってタイトルだし、「フラッシュバックに奴の影 シャアシャアシャア」なんだから、シャアと敵対している人間視点で書いた歌詞なんだろうね。
ぼくはアムロというより、名もなき一兵士を想像するのだけれども。
まあここら辺は、受け取る人それぞれでイメージが違うだろうね。
「流した血しぶき 後で後で拭け」
あたりは、
後年の
「肉を切らせて とどめをさせば」
を連想します。
そしてまあ、「わざと違和感を作ることで強い印象を残す」ってのは、富野ファンにとってはお馴染みの手法だと思うけれども、その手管はこの歌詞でも使われています。
「一人残った 屍の俺が
この戦場で もがき苦しむ地獄の炎」ですよね。
え、屍? 死んだの?
それにしては直前の「残った」って言葉がヘンだし…と、思ったら、最後で
「生きて 見つめる…」
ってどっちだよ! と考えはグルグルし、まさに富野の思うツボなのであります(たぶん)。
次は
『翔べ! ガンダム』と『復活のイデオン』を見てみましょう。
作品本編では、ロボットアニメに変革を起こした富野ですが、OPの歌詞に関しては保守的です。
勇ましい内容、意外なことに勧善懲悪、そして主役ロボット名の連呼!
本編の内容を考えると、
「巨大な敵を討てよ」はまだしも、
「正義の怒りを ぶつけろ」
「うず巻く血潮を 燃やせ」
「せまりくる悪の力に 勇気を示せ」
などは、大いに違和感を持つところであります。
これは、どっちなんだろうね。
富野が「ロボットアニメのOPはこうあるべき!」と思っているのか、それとも「ロボットアニメは子ども向け」と考えていたスポンサーの意図を汲んだ詞なのか。
でも近年のキンゲでも、キン・キン・キングゲイナーなんだから、きっと前者なんだろうね。
構造的に言うと、各パート・サビともはっきり分かり、オーソドックスな造りになっていると思います。
特にイデオンは内容的に、Aパート「聞こえるか 聞こえるだろう」という静かな始まりから、Bパート「伝説の巨神の力 銀河きりさく」まで一気に飛躍し、サビ「スペースランナウェイ イデオン」と繋がるのは1つの物語になっていると思います。
盛り上がりますね。
では、続いて両作品のEDです。
『永遠にアムロ』。
Aパートの次がいきなりサビになっていて、ちょっとトリッキーな感じもしますが、これはおそらくEDの尺を考えた上での構造かと推測できます。
このEDも、子どもの頃から「なんだかアムロっぽくない歌だな」と感じていました。
それは「覚えているかい 少年の日のことを」で
今だって少年じゃん、と思っていたからなのか、
「男は涙を見せぬもの」と歌っているのに、
アニメ本編ではよく泣いているイメージがあるからなのかは分かりませんが。
ただ富野作詞の特徴の1つに、「孤独感」があると思います。作詞初期の段階であるこの作品に、すでに「孤独感」を見て取ることができます。
『コスモスに君と』。
名曲の誉れ高い歌です。ぼくも好きです。
曲も歌声もいいですが、作詞面から見ると歌詞の内容が本編とオーバーラップしているのが好みです。
出だしの
「たったひとつの 星にすてられ
終わりない旅 君とあゆむと」
から最後まで、歌詞全体が作品のプロットのようです。
この本編と歌詞の親和性は、特筆モノですね。
では、また明日にお会いしましょう。
富野の書いた作詞ってどう? の2回目です。
今日は『疾風ザブングル』からです。
ぼくは今回のテーマの序章で、「富野作詞の基本は詞先だと思うけど、ニール・セダカの『Z』と、『疾風ザブングル』は曲先かも」というようなことを書きました。
ニール・セダカは単純に、「日本語が分からない=言葉のリズムが分からないだろうから、詞先は無理なのでは?」と考えただけです。
では、『疾風ザブングル』は? というと、この曲は詞の構造(ってほど大げさなものじゃないけど)が他の富野作詞と違うからです。
この曲、最初にサビが来るんです。
サビ
Aパート
Bパート
サビ
っていう流れなんですね。
もし詞先なら、富野は作曲者に「この曲は、サビのメロディーから景気よく始めてくれ!」みたいなメッセージを送っていることになりますね。
でもサビから始まる富野作詞って、20年後の『キングゲイナー・オーバー!』までないんですよ。
この曲だけサビから始まるのがちょっと不思議で、だから曲先なんじゃないか、と考えているのですが。
歌詞の内容で言えば、やはりタイトル通りの「風」押し+疾走感です。
ま、ぼくは英語が全く出来ないんで自信ないですが、詞の中で何回も出てくるブルーゲイルって「青い疾風」とか「青い旋風」とかそんな感じでしょ。
プラス「風か嵐か」「青い閃光」「はやてのように」だもんね。
まあ問題があるとすれば、ザブングル自体は四角いし飛べないしガソリンが動力だし、スピード感をあまり感じないメカだ、ってことなんですが。
しかしこの歌詞を読んでいると荒野を駆けるザブングルはすごくイメージできるし、第1回目の時に指摘した富野作詞の特徴である孤独感もでているし、割合「分かりやすい」歌詞だと思います。
『乾いた大地』。
この歌はもう、「乾いた大地は心やせさせる」の1節が全て。
2番は「心すさませる」、3番は「心こおらせる」ですが、「やせさせる」が一番良くないですか?
正直、メロディーは好みではないのですが、歌詞はカッコイイの一言ですね。
しかも本編のキャラクター達が、「乾いた大地」に生きているのに、ちっとも「心やせて」ねーじゃん! って突っ込み所があるのも好きです。
ちなみにこの頃になると、『シャアが来る』の時みたいな、「サビはどこなんだ!」みたいなことは無くなっています。
というより、『シャアが来る』がやっぱり、ちょっと特殊なのかな。
『ダンバインとぶ』
イデオンEDや『疾風ザブングル』を「作品世界のイメージ系」と括るなら、イデオンOPやこの『ダンバインとぶ』は「ストーリー説明系」に分けられると思います。
「オーラロードが開かれた」から始まって、バイストン・ウェルでの激闘を連想させる詞が続きます。
また富野作詞の特徴として、「血」や「死」を彷彿とさせる単語を使うことがあげられます。
おそらくドキッとさせるドギツイ言葉を使うことで、聞いている人の関心をひこうとするスキルなのでしょう。
『シャアが来る』の「屍」「地獄の炎」、哀戦士の「死神の列」などです。
そのスキルの決定版が、「肉を切らせて とどめをさせば」だと思います。しかもこの歌詞はラストシーンを連想させます。
「オーラロードが開かれた」から始まって「肉を切らせて とどめをさせば」で終る、まさに物語の起と結を表していますね。
『みえるだろうバイストン・ウェル』
この歌詞は。ねえ。どうスか、皆さん。
なんか、えーと。どう書けばいいかな。「視点」の問題だと思うんですよね。
と言っても、小説を書く上での視点じゃなくて、えー、「どうやって・どの立場から、この歌詞に感情移入すればいいんだ?」っていう。
この『みえるだろうバイストン・ウェル』もそうだし、あと『一千万年銀河』とか、明日書くけど『スターライト・シャワー』とかも。
なんか歌詞の世界に入りこめない!
特定のキャラクターの心情に重なるわけでもないし、作品世界のイメージ、うーん、という。
まあ多分、『みえるだろうバイストン・ウェル』は、タイトル通りバイストン・ウェルの説明と言うか、イメージなんだろうけれど。
でも並んでいる言葉が抽象的すぎる気もするし、ううう、富野ファンとしてはこれ以上書かないでおきます。
富野の書いた作詞ってどう? のラストです。
さて、1つ1つの歌詞からは離れて、ちょっと俯瞰して「歌に関する富野の活動」を見ると、この辺りから変化を見せます。
まずはアニソン界以外からの歌手起用。MIO(当時)さんや、ポップス畑の鮎川麻弥さんの起用ですね。
もう1つはヒットメーカーの作詞家起用。『Time for L-GAIM』『風のノー・リプライ』『水の星へ愛をこめて』は売野雅勇さんで、『アニメじゃない』はご存じ小太りの成金さんです。
筒美京平さんや馬飼野康二さんなどの作曲家起用も含めて、この方針はおそらく2つの理由からだと思われます。
まずは鮎川麻弥さんとの対談。(ちなみに、富野は作詞についていろいろ語っていますが、近年の記事ではこの対談が一番ぼくのお気に入りです。「ヒットすること」へのこだわりが、いかにも富野らしいと思います。)
1つは、この対談で富野が言っている通り、本気でオリコン上位を目指したこと。
2つ目の理由は、小説(ノベライズ)がそうだったように、「才能がある人に任せよう」って時期だったのだと思います。
さて『エルガイム』では、作品の「顔」であるOPはヒットメーカーに任せつつも、EDは前期・後期とも富野が担当しました。
『スターライト・シャワー』と、この記事を書くきっかけになった『傷ついたジェラシー』です。
ところで今となっては、ぼくはどちらも好きな歌ですが、リアルタイムの時はあまり好きではありませんでした。
正直今でも、歌単体としては好きですが、「エルガイムのED」としてはあまり好きではありません。
作品世界のイメージとは違う気がするし、かと言って誰か特定のキャラクターの心情を歌い上げているものでもない。
作品と密着してないと思うんですよね。これもひょっとしたら、ヒットするための普遍性を目指した結果かもしれませんが。
ちょっと蛇足になるかもしれませんが、ここがやっぱりプロとの・売れっ子の作詞家との違いかな、とも思います。
例えば「誰か背中抱いててくれ 一人きりじゃ哀しすぎるから」だって別にダバのキャラと合ってないけど、みんな違和感なく聞いていると思う。多分、共通の普遍性があるから。
逆に「優しい目をした誰かに会いたい」はハマーンにもプルにもひょっとしたら他の色んなキャラクターにも合いそう(OPの絵の印象もあるだろうけれど)ですよね。
前回書いた富野作詞『みえるだろうバイストン・ウェル』『一千万年銀河』『スターライト・シャワー』に欠けているのは、この普遍性なのかな、と思います。
ではラスト、この記事を書くきっかけになった『傷ついたジェラシー』いきましょう。
この歌は、サビの部分の歌詞がいいですよね。明日があるから 今は忘れてる、なんて。
叙情性のようなものがあり、しかも富野歌詞の特長である「孤独感」も強く、過度なセンチメンタリズムに陥ってもいない。
歌詞だけで言えば、『コスモスに君と』と並ぶくらい好きですね。
まあ出だしの、「マシンを片手に」はちょっとつまづきますが。
素直に「片手で持てるマシンってなんだよ」とツッコミたくなります。
この一節があるので、この歌はレッシィの心情を歌っているのかなあ、とも思うのですが。アレか、ぼくがレッシィ好きなだけか。
『傷ついたジェラシー』の歌詞の特長は、もう1つ。なんて言えばいいのか。
えー、本来主体性がないものなのに、意思あるもののように表現する、って言うのか。ぼくの書きたいこと、分かってくれます?
「唇が痛みをこらえて」「泣かないで私の心よ」
まるで唇や心に、意思があるみたいじゃないですか。それがかえって、心情と肉体のバラバラ感、が出てて好きです。
もしCD持っている人は、ラックの奥から引っ張り出して、聞いてみてください。
けっこう心に染みる歌詞ですよ。
さて、序章も合わせて4回に分けて書いてきた富野作詞の分析、なんてエラソーなものでもないな、感想、いかがでしたか。
事実誤認などの指摘は歓迎です。お褒めの言葉は泣いて喜びます。反論は心が折れてしまうので、そこそこでお願いします。
ぼくは「アニメ監督・富野由悠季」はスゴイスゴイ! であり、一方「小説家・富野由悠季」はダメダメ! であり、では「作詞家・富野由悠季(井荻麟)」は? と言えばヨクワカラナイ、だった。
しかし最近、『傷ついたジェラシー』を聞き返す機会があり、「なんか、いい歌(歌詞)だな」と改めて思ったんですよね。
ブログで記事書こうかな、と考えたんですけど。
けれども、ですよ。
音楽の素養もなく、楽器がひけないどころかドレミも分かんねーボンクラことわたくしめが、歌詞の記事なんて書いていいんだろうか、恥ずかしいぞ・それは、と思ったんです。
あ。ああああああああ。
おれ、絵も描けなければ(どれくらい描けないかと言うと、しょうこお姉さんや小林ゆう画伯が上手と思えるレベル)、自主製作の短編1本も撮ったことねーのに、えらっっっそうにアニメや映画のこと書いているわ。
すでに恥かいているんだから、今さら恥の1枚や2枚上書きしたところで、どうってことないね。
そんな訳でこれから数回に分けて、「富野の書いた作詞ってどうなの?」ってことを素人ながら、富野愛だけで書いていこうかと思います。
ちなみに富野が書いた作詞って案外多いので・詳しく知りたい方はkaito2198さんが書いたリストを参照して下さい。
今回はテレビシリーズアニメのOP・EDを対象にします。
富野か書いたのか、否か? 2説あるザンボットとダイターンのOP・EDは外します。
また、共作の『Z・刻をこえて』も除きます。
で今回対象にするのは、『ガンダム』からはじめて、ぼくが興味を持った『傷ついたジェラシー』までにします。
ちなみにこの範囲外ですが、共作である『STAND UP TO THE VICTORY~トゥ・ザ・ヴィクトリー』。この歌に関しては。
作曲の川添智久さんが、(富野からあがってきた詞が)いけいけガンダム~みたいな歌詞だったので新しく作らせてもらった、旨のインタビュー記事を読んだことがあります。確か『V』のLDのライナーノートだったかな。
だから多分、富野の歌詞をみかみ麗緒さんが手直しした、って手順なんだと思います。
さて、この記事を書く前に知っておきたいのは、富野が作詞する際、曲が先にあるのか、それとも詞先なのかってことです。
キンゲは、田中公平さんがNHKのアニソン番組で、「苦労したのはキングゲイナー。ほら、歌詞変えられないから」みたいに言っていたので、詞先で間違いないと思います。
『イデオン』もCD「伝説巨神イデオン」(オリジナルサウンドトラック)のライナーノートに、すぎやまこういちさんが「コスモスに君と」について「私自身、この詩を受け取った時、大変のって旋律を作ることが出来ました。」と書いております(蛇足だけど、このライナーノートを見返していたら「デス・ファイト」のピアノ演奏しているの、羽田健太郎さんだった)。
菅野よう子さんは、インタビュー記事はけっこうあるのに、該当箇所は見つけられませんでした。
ガンダムは、『作曲家・渡辺岳夫の肖像 ハイジ、ガンダムの音楽を作った男』など読みましたが、やはり詞が先か曲が先か、書いてある資料は見つけられませんでした。
ダンバイン、ザブングル、エルガイムは手持ちの資料が少ないので不明。
これらのOP・EDが詞先か曲先か、明記されている資料を知っている方がいらっしゃたら、是非教えていただきたいです。
すぎやまさんや田中さんのようなビッグネームにも詞先だったので、菅野さん作曲の主題歌はほぼ間違いなく、富野の詞先だと思うけどなあ。
ただ『キングゲイナーエクソダスガイド』の富野x広井x田中対談では、田中公平さんが
富野さんの歌詞は、曲先の場合なんかでも「ここにこんな言葉がはまってくるのか」というおもしろさがあるんです。
と言っているので、曲先の場合もあるってことだよね。これは多分、劇中歌だと思うけれども。
後は、筒美京平さんや芹澤廣明さんなど、アニメ畑以外の作曲家の時は、どうしていたかってこと。
ぼく個人としては、ニール・セダカ作曲の『Z』と、『疾風ザブングル』以外は、詞先だと思い込んでいます。根拠なし。
あ、『疾風ザブングル』が曲先だと思っているのは、後日書くけどちょっと理由があります。間違っているかも、だけど。
では次回から、富野の作詞を見ていきましょう。
さて、富野の書いた作詞ってどう? の1回目。
序章の前回で「今回はテレビシリーズアニメの主題歌だけを対象に」と書いておきながらナンですが、1作だけ例外、富野作詞と言えばコレ! な『シャアが来る』から見てみましょう。
できれば、こちらの歌詞と合わせてお読みいただくと、よろしいかと。
メロディーを全く思い起こさずに歌詞だけ見ると、まずオウッと思うのが、サビはどこだ? ってこと。
歌詞って普通、
Aパート
Bパート
サビ
とか、
Aパート
Bパート
サビ
Cパート
サビ
みたいな構成になっていると思うんだけど、この歌はいったい…
そしてこの歌詞がユニークなのは、「コレ、誰の視点なの?」ってことだろうね。
「シャアが来る」ってタイトルだし、「フラッシュバックに奴の影 シャアシャアシャア」なんだから、シャアと敵対している人間視点で書いた歌詞なんだろうね。
ぼくはアムロというより、名もなき一兵士を想像するのだけれども。
まあここら辺は、受け取る人それぞれでイメージが違うだろうね。
「流した血しぶき 後で後で拭け」
あたりは、
後年の
「肉を切らせて とどめをさせば」
を連想します。
そしてまあ、「わざと違和感を作ることで強い印象を残す」ってのは、富野ファンにとってはお馴染みの手法だと思うけれども、その手管はこの歌詞でも使われています。
「一人残った 屍の俺が
この戦場で もがき苦しむ地獄の炎」ですよね。
え、屍? 死んだの?
それにしては直前の「残った」って言葉がヘンだし…と、思ったら、最後で
「生きて 見つめる…」
ってどっちだよ! と考えはグルグルし、まさに富野の思うツボなのであります(たぶん)。
次は
『翔べ! ガンダム』と『復活のイデオン』を見てみましょう。
作品本編では、ロボットアニメに変革を起こした富野ですが、OPの歌詞に関しては保守的です。
勇ましい内容、意外なことに勧善懲悪、そして主役ロボット名の連呼!
本編の内容を考えると、
「巨大な敵を討てよ」はまだしも、
「正義の怒りを ぶつけろ」
「うず巻く血潮を 燃やせ」
「せまりくる悪の力に 勇気を示せ」
などは、大いに違和感を持つところであります。
これは、どっちなんだろうね。
富野が「ロボットアニメのOPはこうあるべき!」と思っているのか、それとも「ロボットアニメは子ども向け」と考えていたスポンサーの意図を汲んだ詞なのか。
でも近年のキンゲでも、キン・キン・キングゲイナーなんだから、きっと前者なんだろうね。
構造的に言うと、各パート・サビともはっきり分かり、オーソドックスな造りになっていると思います。
特にイデオンは内容的に、Aパート「聞こえるか 聞こえるだろう」という静かな始まりから、Bパート「伝説の巨神の力 銀河きりさく」まで一気に飛躍し、サビ「スペースランナウェイ イデオン」と繋がるのは1つの物語になっていると思います。
盛り上がりますね。
では、続いて両作品のEDです。
『永遠にアムロ』。
Aパートの次がいきなりサビになっていて、ちょっとトリッキーな感じもしますが、これはおそらくEDの尺を考えた上での構造かと推測できます。
このEDも、子どもの頃から「なんだかアムロっぽくない歌だな」と感じていました。
それは「覚えているかい 少年の日のことを」で
今だって少年じゃん、と思っていたからなのか、
「男は涙を見せぬもの」と歌っているのに、
アニメ本編ではよく泣いているイメージがあるからなのかは分かりませんが。
ただ富野作詞の特徴の1つに、「孤独感」があると思います。作詞初期の段階であるこの作品に、すでに「孤独感」を見て取ることができます。
『コスモスに君と』。
名曲の誉れ高い歌です。ぼくも好きです。
曲も歌声もいいですが、作詞面から見ると歌詞の内容が本編とオーバーラップしているのが好みです。
出だしの
「たったひとつの 星にすてられ
終わりない旅 君とあゆむと」
から最後まで、歌詞全体が作品のプロットのようです。
この本編と歌詞の親和性は、特筆モノですね。
では、また明日にお会いしましょう。
富野の書いた作詞ってどう? の2回目です。
今日は『疾風ザブングル』からです。
ぼくは今回のテーマの序章で、「富野作詞の基本は詞先だと思うけど、ニール・セダカの『Z』と、『疾風ザブングル』は曲先かも」というようなことを書きました。
ニール・セダカは単純に、「日本語が分からない=言葉のリズムが分からないだろうから、詞先は無理なのでは?」と考えただけです。
では、『疾風ザブングル』は? というと、この曲は詞の構造(ってほど大げさなものじゃないけど)が他の富野作詞と違うからです。
この曲、最初にサビが来るんです。
サビ
Aパート
Bパート
サビ
っていう流れなんですね。
もし詞先なら、富野は作曲者に「この曲は、サビのメロディーから景気よく始めてくれ!」みたいなメッセージを送っていることになりますね。
でもサビから始まる富野作詞って、20年後の『キングゲイナー・オーバー!』までないんですよ。
この曲だけサビから始まるのがちょっと不思議で、だから曲先なんじゃないか、と考えているのですが。
歌詞の内容で言えば、やはりタイトル通りの「風」押し+疾走感です。
ま、ぼくは英語が全く出来ないんで自信ないですが、詞の中で何回も出てくるブルーゲイルって「青い疾風」とか「青い旋風」とかそんな感じでしょ。
プラス「風か嵐か」「青い閃光」「はやてのように」だもんね。
まあ問題があるとすれば、ザブングル自体は四角いし飛べないしガソリンが動力だし、スピード感をあまり感じないメカだ、ってことなんですが。
しかしこの歌詞を読んでいると荒野を駆けるザブングルはすごくイメージできるし、第1回目の時に指摘した富野作詞の特徴である孤独感もでているし、割合「分かりやすい」歌詞だと思います。
『乾いた大地』。
この歌はもう、「乾いた大地は心やせさせる」の1節が全て。
2番は「心すさませる」、3番は「心こおらせる」ですが、「やせさせる」が一番良くないですか?
正直、メロディーは好みではないのですが、歌詞はカッコイイの一言ですね。
しかも本編のキャラクター達が、「乾いた大地」に生きているのに、ちっとも「心やせて」ねーじゃん! って突っ込み所があるのも好きです。
ちなみにこの頃になると、『シャアが来る』の時みたいな、「サビはどこなんだ!」みたいなことは無くなっています。
というより、『シャアが来る』がやっぱり、ちょっと特殊なのかな。
『ダンバインとぶ』
イデオンEDや『疾風ザブングル』を「作品世界のイメージ系」と括るなら、イデオンOPやこの『ダンバインとぶ』は「ストーリー説明系」に分けられると思います。
「オーラロードが開かれた」から始まって、バイストン・ウェルでの激闘を連想させる詞が続きます。
また富野作詞の特徴として、「血」や「死」を彷彿とさせる単語を使うことがあげられます。
おそらくドキッとさせるドギツイ言葉を使うことで、聞いている人の関心をひこうとするスキルなのでしょう。
『シャアが来る』の「屍」「地獄の炎」、哀戦士の「死神の列」などです。
そのスキルの決定版が、「肉を切らせて とどめをさせば」だと思います。しかもこの歌詞はラストシーンを連想させます。
「オーラロードが開かれた」から始まって「肉を切らせて とどめをさせば」で終る、まさに物語の起と結を表していますね。
『みえるだろうバイストン・ウェル』
この歌詞は。ねえ。どうスか、皆さん。
なんか、えーと。どう書けばいいかな。「視点」の問題だと思うんですよね。
と言っても、小説を書く上での視点じゃなくて、えー、「どうやって・どの立場から、この歌詞に感情移入すればいいんだ?」っていう。
この『みえるだろうバイストン・ウェル』もそうだし、あと『一千万年銀河』とか、明日書くけど『スターライト・シャワー』とかも。
なんか歌詞の世界に入りこめない!
特定のキャラクターの心情に重なるわけでもないし、作品世界のイメージ、うーん、という。
まあ多分、『みえるだろうバイストン・ウェル』は、タイトル通りバイストン・ウェルの説明と言うか、イメージなんだろうけれど。
でも並んでいる言葉が抽象的すぎる気もするし、ううう、富野ファンとしてはこれ以上書かないでおきます。
富野の書いた作詞ってどう? のラストです。
さて、1つ1つの歌詞からは離れて、ちょっと俯瞰して「歌に関する富野の活動」を見ると、この辺りから変化を見せます。
まずはアニソン界以外からの歌手起用。MIO(当時)さんや、ポップス畑の鮎川麻弥さんの起用ですね。
もう1つはヒットメーカーの作詞家起用。『Time for L-GAIM』『風のノー・リプライ』『水の星へ愛をこめて』は売野雅勇さんで、『アニメじゃない』はご存じ小太りの成金さんです。
筒美京平さんや馬飼野康二さんなどの作曲家起用も含めて、この方針はおそらく2つの理由からだと思われます。
まずは鮎川麻弥さんとの対談。(ちなみに、富野は作詞についていろいろ語っていますが、近年の記事ではこの対談が一番ぼくのお気に入りです。「ヒットすること」へのこだわりが、いかにも富野らしいと思います。)
1つは、この対談で富野が言っている通り、本気でオリコン上位を目指したこと。
2つ目の理由は、小説(ノベライズ)がそうだったように、「才能がある人に任せよう」って時期だったのだと思います。
さて『エルガイム』では、作品の「顔」であるOPはヒットメーカーに任せつつも、EDは前期・後期とも富野が担当しました。
『スターライト・シャワー』と、この記事を書くきっかけになった『傷ついたジェラシー』です。
ところで今となっては、ぼくはどちらも好きな歌ですが、リアルタイムの時はあまり好きではありませんでした。
正直今でも、歌単体としては好きですが、「エルガイムのED」としてはあまり好きではありません。
作品世界のイメージとは違う気がするし、かと言って誰か特定のキャラクターの心情を歌い上げているものでもない。
作品と密着してないと思うんですよね。これもひょっとしたら、ヒットするための普遍性を目指した結果かもしれませんが。
ちょっと蛇足になるかもしれませんが、ここがやっぱりプロとの・売れっ子の作詞家との違いかな、とも思います。
例えば「誰か背中抱いててくれ 一人きりじゃ哀しすぎるから」だって別にダバのキャラと合ってないけど、みんな違和感なく聞いていると思う。多分、共通の普遍性があるから。
逆に「優しい目をした誰かに会いたい」はハマーンにもプルにもひょっとしたら他の色んなキャラクターにも合いそう(OPの絵の印象もあるだろうけれど)ですよね。
前回書いた富野作詞『みえるだろうバイストン・ウェル』『一千万年銀河』『スターライト・シャワー』に欠けているのは、この普遍性なのかな、と思います。
ではラスト、この記事を書くきっかけになった『傷ついたジェラシー』いきましょう。
この歌は、サビの部分の歌詞がいいですよね。明日があるから 今は忘れてる、なんて。
叙情性のようなものがあり、しかも富野歌詞の特長である「孤独感」も強く、過度なセンチメンタリズムに陥ってもいない。
歌詞だけで言えば、『コスモスに君と』と並ぶくらい好きですね。
まあ出だしの、「マシンを片手に」はちょっとつまづきますが。
素直に「片手で持てるマシンってなんだよ」とツッコミたくなります。
この一節があるので、この歌はレッシィの心情を歌っているのかなあ、とも思うのですが。アレか、ぼくがレッシィ好きなだけか。
『傷ついたジェラシー』の歌詞の特長は、もう1つ。なんて言えばいいのか。
えー、本来主体性がないものなのに、意思あるもののように表現する、って言うのか。ぼくの書きたいこと、分かってくれます?
「唇が痛みをこらえて」「泣かないで私の心よ」
まるで唇や心に、意思があるみたいじゃないですか。それがかえって、心情と肉体のバラバラ感、が出てて好きです。
もしCD持っている人は、ラックの奥から引っ張り出して、聞いてみてください。
けっこう心に染みる歌詞ですよ。
さて、序章も合わせて4回に分けて書いてきた富野作詞の分析、なんてエラソーなものでもないな、感想、いかがでしたか。
事実誤認などの指摘は歓迎です。お褒めの言葉は泣いて喜びます。反論は心が折れてしまうので、そこそこでお願いします。








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